ドラマの見過ぎ

現実で経験したことのないシーンを、頭の中で想像すると、つい神の視点でものを見てしまう。
この神の視点というのは、テレビ番組におけるカメラにあたる。
ドラマでキスシーンがあったとする。
実際に男女がキスをしているかはともかくとして、大抵両者が映るような位置にカメラがある。
ドラマを見ている人間は、所詮観客に過ぎない。


大抵の映像は、主観じゃなくて客観だ。
そのせいか私が妄想をしたとき、それは客観視点である場合が多い。
そもそも自分が出てこない。
自分は完全にその世界の神様となったつもりで、世界を、人を動かす。
でも、そればかりだと飽きが来ることもある。
神様だって地上に降りてみたくなる。
意識すれば主観視点で妄想することもできるはずだと信じて、妄想世界の人の身体を借りる。
そしてその人の目を使って周りを見る。
ぼやけているが、客観視点ではなくなった。
体がある。
そして、その借りた体に、その世界のほかの人物が触れた途端、体に衝撃が走った。
妄想世界の中ではなく、現実世界の私の体に、だ。
触られたあたりがビリリと来た。
慣れないことはするもんじゃない。
神様は神様として生きることしか許されていないのか。


私の妄想は、主観客観に関わらず、人物がハッキリとしない。
人間だから、顔はある。
でも、それが一体どんな顔なのか、というのは分からない。
おかしいはずなのに、それが当たり前となっているというのは、夢の中の世界のようだ。
目覚めれば不思議だったと思うが、夢を見ている間はそこで起こる出来事は自然であると思ってしまう。


しかし妄想と夢には決定的な違いがある。
それは視点だ。
夢の中では、必ず自分の目で見た映像が流れる。
体を触られても、現実世界の体に衝撃が走ることはない。


私は心の隅でずっと、妄想の内容が夢に出ないかと待ち続けている。
現実で起こりえないことを考えるのが妄想だ、と昔クラスメイトが言っていた。
だから現実は頼りにならない。
頼める相手は夢だけだ。
妄想の内容がそのまま夢になったことはないが、それに近いものだったら夢に出たことがある。
それから目覚めたとき、不思議なことだが満足感があった。
虚しさを一遍も感じなかった。


そこらへんの娯楽用品にお金をくらいなら、夢を楽しんだほうがいい。
眠って、起きる。
その間にきっと、楽しいことがまぎれているはず。


おやすみなさい。